件の客からの依頼はやはり無理を押し通そうとする愚かしいものだった。宝石商と事業の提携を結んだものの印度から取り寄せた石は約束した量に足らず、相手を納得させるためにいくつか宝石を足したい、翌日までに日本でとれたものを探してくれという依頼で、一見不可能にも思えるそれはライドウのつてで容易く応えられたわけだが、宝石が用意できたことを知るやいなや客は憎憎しげに奥歯をかみしめた。
「鳴海さん、あなたはずるい」
鳴海は微笑んだ。「約束は約束です。今日までに俺が石を用意できたら報酬の二倍いただく、けれど不可能だったらあなたのお願い事を俺が聞く――お願い事がどういったものだったかは知りませんがね」
客は宝石を鳴海の手からむしりとると引き換えに紙幣の束を置いて、部屋を出て行った。
「よっぽど俺をどうにかしたかったらしい」
ニヤリと口元だけで笑う鳴海に、ライドウはあきれたように学帽をかぶりなおした。
――手伝うんじゃなかった。
「そう言うなよ、俺があいつに抱かれてもよかったっていうのか」
――一度好きにさせてやったらいかがです。
「いやだよ、あいつに薬使われてさんざんな――って、しまった」
隠していたのに、という鳴海に反省の色はない。肩をすくめた後、にっこりとほほえみ、「まあまあ、そう睨むなって、いいじゃないか無事にここにいるんだから」と言った。
知らぬところでのやりとりがあったのだとライドウは冷えた目で鳴海を見つめた。いつであろうか。酒に酔って帰ってくることはしばしばだが、一度だけ熱が冷めないのだといって、鳴海がいつまでもライドウの上にまたがっていたことがあった。もしかしたらあのときがそうだったのかもしれない。ライドウとしてははじめて己を求められたような思いでいたのだが、あの客に抱かれた直後であったと思うと苦く思わざるを得ない。
「おや、電話だ」
鳴海はそんなライドウの思いなどお見通しなのだろう。わざとらしく受話器をとって話し出したので、ライドウは執務室を出てビルの屋上へと上った。
鳴海が奔放なのは今にはじまったことではない。そう、最初からそうだった。はじめて鳴海探偵社を訪れた日も鳴海は客の一人と奥で寝ていたではないか。待っている間、延々と鳴海の喘ぎを聞くはめになった。今はあの部屋を使うのは自分とだけだと、そのはずだと思ってはいるが、定かではない。己だけのものにはならぬ人なのだ。
かがむと足元には初夏らしく濃い影が落ちている。ライドウははじまりを思った。間違いなくとも、鳴海に出会ったときからこの思いははじまっているのだ。
『はじめまして、鳴海です。これからどうぞよろしく』
女の甘いものとは違う、押し殺したような喘ぎ声も、線の細い癖毛も、三十路過ぎた男とは思えぬすらりとした体躯も、すべてが美しい。細い指が己の頬をつつみ、唇を啄ばむところを繰り返し夢想した。
そして一線を越えた。
数多の人間と眠るくせに己とはまったく寝ようとしなかった鳴海にしびれをきらし、我慢のきかなくなった己もどうかと思うが、鈴口からこぼれる先走りも、かたくなっていく鳴海自身も、なによりかすれた喘ぎは夢にまで見たほどで、その時を境に色濃く関係を結ぶようになった。
『好きだといってくれたらもっと俺だって答えようがあるのに』
――これを好きというのなら、あなたは今まで関係を持った人間すべてを愛しているのですか。俺が好きといったなら、あなたはすべてを終わらせる。
感情に名前もつけられぬまま、ライドウは唇を噛んだ。
『ライドウはだからいやだよ、聡くて』
鳴海は笑ったのだった。
己にあるのは周囲より叩き込まれた善悪の判断のみだ。愛も恋もよくわからない。そう、わからないのだ。
『恋をしたことがないのか』
己の頬を撫でる鳴海の顔はこの上なく美しい。
――俺にはわからない。これが何なのか。あなたが他の人間に抱かれているかと思うと、我慢がきかなくなる。
『やめろ、とただ一言いえばいい』
鳴海の淡い目に己の姿が映っている。そのとき、鳴海はにこりとさえしていなかったのだ。
『ライドウ、俺は』
――ああ、だからいやになる!
ライドウは身を翻し、そのときも同じように屋上へやってきたのだった。ドアが閉まる瞬間、鳴海は笑ってはいなかった。
雨はいつのまにか止んでいた。雲の間から筋となってさした光が連なる屋根の先で白く反射している。鳴海が見ていた景色はこれであろうかとライドウは思った。鳴海は夕暮れになると銀楼閣の屋上へのぼり、戻ってこないことがあった。追いかけたことはなかった。野暮なことをするない。誰しもが云うであろうそれをライドウも思っていた。
――鳴海さん。
風が空の雲を押し流していく。視線を感じ、横を見ると、鳴海がたばこをふかしながら立っていた。
「野暮なことをするない」
どこかで読んできたかのように言い、ライドウの隣へ足をすすめると、帝都の途切れるところ、うっすらと浮かぶ富士を見つめて、
「この眺めに勝るものはなかなかないさ」
と淡く笑みを浮かべた。
「なあ、ライドウ」
鳴海が目を細め、ライドウは黙った。鳴海は己を求めないだろう。己もまた鳴海を追うことはなくなるのかもしれない。いつか――いずれ。ライドウは鳴海の口から煙草を抜き取るとそっと己の唇を寄せた。鳴海はゆっくりと目を閉じる。再び目が開かれるまで、二人は唇をあわせたまま動かなかった。