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真の名

 シキガミは彼を知らず、彼もシキガミを知らなかった。彼を知る者はシンジュク衛生病院にはいなかった。二階へ上がる階段から飛び出してきたシキガミと向かい合い、彼は蜃気楼に向かっているかのように、

「おまえは誰」と静かに問いかけた。

 階段の影に立つ彼の身体には異国の民族を思わせる模様が浮かび上がり、淵は蛍のように光っている。

「先ニ、名ヲ名乗レ」

 彼は首をかたむけたまま、答えた。

「無くなってしまったんだ」

「無クナル、トハ」

「自分の名前を思い出せないんだ」

 シキガミは唸り声をあげた。シキガミにとって名を忘れるということは己を忘れることであった。己の存在を忘れるなど、ありえないことである。なぜなら「アリエナイ」と思うことがすなわち己が己として存在している証拠だったからである。

「ナラバ、何故、ココニイル」

 シキガミは次いで問いかけた。彼はまだ答えられなかった。彼は己の身体を見、

「この模様があるってことが、たぶん、おれがここにいる理由なんだと思う、こんなのなかったんだ、ずっと」

 肩をすくめ、笑おうとした。だが頬は震えただけで、かたちをかえることはなかった。

「笑い方も忘れてしまった」

 彼は生まれたばかりの悪魔だった。数時間前までは人間であり、悪魔の存在も知らず、数週間後にひかえた試験の心配をしながら、同時に今日の夕飯は何かと考えるような、平凡な若者だった。シンジュク衛生病院には友人に付き添い、日頃世話になっている教師を見舞う予定だった。ただ、それだけのつもりだった。だが蓋を開けてみれば、その教師は氷川という男の望むままに空間の軸を操り、時間を歪め、世界のあらゆる理を破壊し、世界に混沌を呼び戻した。それが東京受胎だ。彼は放り出され、金髪の子供によって悪魔に作りかえられた。目が覚めたとき、彼が知っている世界はどこにもなかった。

 階段の踊り場には、日々の入った窓ガラスに反射した光が差し込んでいる。彼はそこに向かって階段を上った。シキガミはじっとそれを見ていた。命を、いやマガツヒを奪うことならたやすくできたであろう。彼がマガツヒをもっていたならば、の話だが。彼はまだマガツヒが何であるかさえ知らなかった。

「空ッポ、ナノカ」

「そうかもしれない」

 シキガミは足先というのだろうか、尾のようになっている部分で己の身体を撫でた。そこには目に見えぬ名が刻まれている。シキガミが生まれたのは一千年以上昔のことであるが、墨で書かれた名は永い時の中でも薄れはしない。

「名ヲ」シキガミは言った。「名ヲ失ウ、ソレハ死ヲアラワス、コトガアル」

「なら、おれは死んだんだ」

 彼は振り返り、答えた。シキガミと彼は再び見つめあった。彼の目からは何も読み取れなかった。喜びも、怒りも、悲しみも、彼が何を思っているのか、シキガミにはわからなかった。彼を哀れに思った。だがシキガミにも何故彼を哀れに思ったかはわからなかった。

「きっと、死んでしまったんだ」

「ナラバ、何故、ココニイル」

 シキガミは彼の目の前に滑り込むと身体をまきつかせた。薄く白い身体は光を通さず、彼の顔に濃い影を落とした。彼は笑っていなかった。だが泣いてもいなかった。

 シキガミは朗々と言った。

「ココニイル。目ノ前ニイル。ナラバ、生キテイルノダ。名ヲ呼ビ戻セ。名ハ、コノ世界ノドコカニアルハズダ。名ヲ呼ビ戻セ。名ハ己ガ己タル証明――ソノタメニ、チカラヲ、貸シテヤッテモイイ」

「おまえは何ていうの」彼は聞いた。黒い目はまばたきをすることもなく、シキガミの姿を映し出していた。シキガミは満足げにゆっくりと離れ、彼だけに真の名を告げる。