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バス停の男

 着物の上からでも男が痩せていることはわかった。一目見たとき、気味の悪い男だな、と思った。痩せているのに腹だけは水がたまったように出てい る。会津へ帰る祖母を東京駅まで見送った帰りで、雪がちらちらと舞っていた。

 バスが来るまで10分はあったかと思う。わたしは傘を持っておらず、粉雪が次第に大きくふくらんでいくのを身にうけながら、着物の袖に手を引っ込めた。腕を組み、息をはく。息の白さがその日の寒さを物語っていた。

 男はバス停のベンチに座っていたのだ。ベージュのハンチングを深くかぶり、着物の上にフロックという奇妙な格好ではあったが、それが最近の若者の流行なのだろうと思った。

「となり、よろしいですか」わたしは男に声をかけた。「今日は寒いですね、しかしこれくらい冷え込まないと冬がきたというかんじがしませんね」

 男は黙ったまま、こくりと牛玩具のようにかたかたと頭を動かした。わたしはそのときも、気味の悪い肯き方だなと思った。男の表情 は見て取れなかった。わたしのほうが随分と背が高かったからだ。わたしは男の隣に座るのをやめようかと思ったが、男は気遣ったのか身をかすかに左にずらしたので、座らないのも悪いかと腰を下ろした。

 東京駅の前は雪のせいで人もまばらであった。車の通りもなかった。空はどんよりと灰色に沈み、音は 雪に吸い込まれていくようだった。静かだった。わたしの息遣いだけが唯一の音であるように思えた。息は白く、氷のように浮かび、雪は次第に土を埋めていく。

「本当に寒いですね」

 わたしは再び話しかけた。男はやはり黙っていた。それからどれほど黙っていただろう。10分たっても20分 たってもバスはこなかった。次第に沈黙がつらくなった。バスよ、早く来てはくれぬかと思い、立ち上がろうとすると、男がなにやらぼそりと言った

「え、 なんですか」

 囁くような声に顔を向けると、男はハンチング帽の下で大きく口をあけ、赤紫色の舌を突き出した。わたしの腕にかみつかんとしたの だ。わたしは身を引こうとしたが、その前に男がベンチの下に転がり落ちた。男の鼻先には炎の玉が浮かんでいた。男は顔をおさえ、言葉にならぬ声とともにのた打ち回った。

 わたしは恐ろしさのあまりに叫ぶこともできなかった。男は咽喉をかきむしるようにし、焼かれた鼻先を冷やそうと土に顔をつけよう とした。が、舌をのばすと、雪の上でも火が燃え上がるのだった。

 男は、かわく、とうめき声のようなものをあげながら、立ち上がった。座っている ときはまだ年若い男だと思ったが、立ち上がるとその背は老人のように曲がっていた。脚は蟹股で赤ん坊がやっとつかまり立ちをしたときのような風情であった。

 かわく、かわく。かわく、かわく。

 男はそう言いながら、次第に小さくしぼみ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら東京駅の中へ消えて いった。わたしは呆然と、男の消えた方向を見つめるしかなかった。しばらくしてバスはやってきたが、乗ることはできなかった。かわく、かわく、という男の 声だけが奇妙に耳に残った。あの男はなんだったのか。わたしには今もわからない。それから数十年がたったが、あれ以来、バス停のベンチには一度も座っていない。