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わたしの足からのびるあなたの影

 悪戯をするのはちょっとだけかわいそうだった。旅人ってかんじじゃなかった。どちらかというと迷子。迷子になっちゃってる、ってことさえ気づいてない迷子。出会ったとき、あの子は何層にもあった世界が一つに戻ってしまったことをわかっていなかった。人の住む層、悪魔が住む層、人も悪魔も存在できない層、それが重なってどろどろに溶け合っていた。あの子は自分がどんな姿をしているかもわかっていなかった。わたしの目に映る自分の姿を不思議そうに見、それが自分であることも気づいてないようだった。

 自分が悪魔だってことをわかっていないなんて変わってる! その時はそう思った。けれど、もしかしたらあの子はわかっていなかったんじゃなくて、 そのことをなんとも思っていなかったのかもしれない。あの子のこころは確かに空洞だった。さらさらと落ちる砂のような世界のかけらを、変わってしまった見 知っている世界をわけもわからず集めているかんじだった。

 あの子が自分がしていることの意味に気づくのは、わたしと出逢ってから随分あとのことだったんだもの。

 わたしと出逢ったとき、あの子は閉ざされた硝子の扉をどうにかして開けたかっただけ。それはわたしも同じだった。わたしも、あの子も、あのときは 外に出たくてたまらなかった、お母さんのおなかからでてくる子供みたいに。生まれれば生まれる前のことは忘れてしまう、赤ちゃんみたいに。わたしも、あの 子も、気づいたら「わたし」になっていた。その前のことは覚えていない。

 遠い昔、太陽の沈む地の果てにわたしは住んでいた。風を通さない暖かな石の影に眠り、気が向くと畑にいる怠け者の鼻先をつついて、夜は森の中で 踊った。道を行く旅人を見かければ手をとって踊りに誘った。足がもつれても、腕があがらなくなってもくるくるくるくる踊らずにはいられなくなるように。旅人を踊らせるとわたしは彼らの馬をしばらくの間かりることができた。彼らの馬はわたしたちと過ごすことには慣れていないから乗りこなすのは大変だった。

 馬に乗るときは人の姿になった。男、女、老婆、少年、騎士に神父、それから――王様になるのが一番おもしろい。だって人に出会うと、みんなおんなじ顔をするんだもの。「まさか」って顔。その顔を見るのがわたしは大好き。そうやって走って森が切れるところまで行く。

 森の果てには泉があって、ほとりに一軒の家がたっている。丸太で出来た小さな家だ。そこにいる赤ん坊をよく見に行った。母親の姿をかりて、その子を抱き上げ、強く抱きしめたらつぶれちゃいそうな重みを一晩森にさらおうとした。けれど、いつだってベッドとその子を結ぶリボンに跳ね返された。きっちり結ばれたそれをほどくことはわたしにはできなかった。触れることさえなかった。

 その子が与えられた名をわたしが与えられていないからだと周りの妖精たちは教えてくれた。わたしはそのときのわたしを知らない。覚えていない。それはわたしがわたしになる前の話だ。わたしがもし人のようにお母さんから生まれてくるものだったとしたら、お母さんのおなかにいたころの話。

 代々木公園にたどり着いても、あなたはまだいっしょにいたいと言った。

 わたしはそのときあなたに結ばれた見えないリボンを見た。悪魔の あなたにも見えないリボン。妖精たちの歌声が公園の中を強く吹く風とともに聞こえていた。わたしはいつでもみんなのところへ戻ることができたし、いっしょにいたいというあなたをはねのけていくことだってできた。でもしなかった。あなたはわたしの目に映る自分を見ていた。わたしはあなたの目に映る自分を見ていた。わたしはあなたの鏡で、あなたはわたしの鏡だった。見えないリボンがその証拠だ。もう少しだけついていってあげる。そう言わせたのはあなただ。あな たの身体に結ばれた透明なリボンはわたしの足先に影のように吸い付いて、行こう、と言うあなたの横で音なくほどけていく。