indextext > 青の祓魔師

ひとつぶのあめ

 南から吹く風が春を連れてくる。
 門前より見える桜のつぼみがほのかにピンクに染まりはじめた3月の終わり。ぽかぽかと暖かな陽気のなか、獅郎とクロは酒を酌み交わした。

 ――ちと早いが今年は何かとばたばたしそうでな。約束守れそうにないからな。

 毎年、桜が咲いたら花見をしながら酒を飲むのがクロと獅郎の約束であった。

 ――雪男の引越しももうすぐだしなあ。燐は、……うん、ま、相変わらずだが!

 二人いる息子のうち、一人は正十字学園の入学が決まったということだったが、もう一人は就職先が決まらず毎日職安通いとのことだった。学校がどうの、仕事がどうのと聞かされたとてクロにはわからぬ話ではあったが、獅郎はかまわずに話した。クロもまたかまわなかった。クロは獅郎の話を聞くのが好きだった、とくに息子の話を聞くのが好きだった。目じりにはいった皺をさらに寄せて優しげに話す様を見ているのが好きだった。

 酒を飲んで獅郎の息子の話をああでもないこうでもないとするのはふたりの常であった。

 ――しっかし、もう15だっていうんだからに、早ぇもんだよ。

 なあ? と獅郎はクロの頭を撫でた。クロはごろごろと喉を鳴らしながら、獅郎の膝の上でくつろぐようにして座り、

 ――おまえもそこが好きだねえ、しかたねえなあ。

 獅郎がくつくつと笑って、さらに頭をなでると、クロはまたたび酒に酔いながら、獅郎の手にもほんのりと酔うのであった。

 べろべろに酔っぱらって楽しくなって別れる。 
 じゃ、またな、と云ってその日も別れた。
 クロはほろ酔いのまま、うん、またなあ、と云って獅郎を門から見送ったのだった。


 以来、獅郎はあらわれない。

 クロは南裏門から続く道を蝙蝠傘の下から見つめていた。雨足は強くなるばかりで、裏門を出入りする人々はみなフードを深くかぶっている。しかもそろいもそろって喪服であった。

(だれか、しんだのか)

 クロは思った。
 だがクロはそのとき、さしてそのことには興味を持てなかった。
 そのときクロが待っていたのは獅郎ただひとりだったから。

(またな、っていった)
(あめがふってる、から、しろうはこないのか)
(それとも、しごとがおわらないのか)

 季節は移り変わっていた。
 桜は散り、若葉が代わりに季節を彩りはじめていた。
 朝の色は次第に青さを増し、青が増すほどにクロは不安になった。

(なつになってしまう)
(しろう) 

 獅郎はあらわれるはずだった。
 いつものようにまたたび酒を片手に、――よう、飲もうぜ、と。
 だが待てども待てども獅郎があらわれることはなかった。
 獅郎と会えぬ日々がつのるほどに、クロは道の先を見つめるようになった。
 雨が降っても、風が吹いても、クロは欄干の端に立つことをやめなかった。
 熱にぼやける道の先だけをみつめ、獅郎だけを待ち続けた。

(しろう)

 次に獅郎がやってきたらすこしばかり飛びかかってやるつもりだった。
 ひっかいてやるつもりだった。
 どこへいっていたのだと怒ってやるつもりだった。
 そうしてまた獅郎と酒を酌み交わすつもりだった。

(しろう)

 クロが獅郎と会うことは二度となかった。


 クロは飲めぬ酒に口をつけ、苦い顔をしている燐を見上げる。
 次いで、それに向かって目をつりあげている雪男のことも。
 不意に、15になっちまったんだから、早ぇもんだよ、という獅郎の声を思い出して、うつむいた。
 いまも時折、道の先にはまだ獅郎がいると思うことがあった。
 ――よぅ、クロ! 飲もうぜ。
 そう云ってあらわれるのではないか、予感に駆られることがあった。
 そのたびにクロは自分に言い聞かせた。

(しろうはもう、かえってこない) 
(だけど、おれはしなない)
(しろうがかえってこなくても)
(おれはしなない)
(おれは、いま、)

 ――そいつらのこと頼むな、クロ。

 視界が揺れた。
 それは酔いのなかに見た幻だったかもしれない。
 ぼやけた視界のせいだったかもしれない。
 クロは確かにそのとき、すぐ隣に獅郎を見たのだった。

 「ん、どうかしたか? クロ」
 ぽつり。
 クロの目からぼたぼたと大粒の涙がこぼれた。
 「ど、どうした!? どっかいたいのか!」
 あわてふためく燐には抱き上げられ、どうかしたの、と雪男は覗き込んでくる。
 クロは首を横にふるふると振った。

(おれはしなないんだ)
(しろうはもう、かえってこないけど)
(おれは)

 ――おれは、いま、いっしょにいる。
 ちゃんと、いっしょにいるんだ。

「おう、そうだ、一緒だぜ。なんだよいまさら」
 燐はあっけらかんと言い、酔ったのかよ、と笑いながらクロの頭を撫でた。
 雪男も同じようにそっと背を撫でた。

 獅郎の笑顔を思い出した。
 目じりのしわを思い出した。
 少しばかり皮肉をにじませた口元を、
 仲直りしようと言った声を、
 己の頭を撫でた手のぬくもりを。

 思い出した。

 クロは泣いた。
 二人の間で、おいおいと声をあげて泣いた。
 かなしいような、さみしいような、あたたかいような、せつないような。
 ないまぜになった感情のなか、クロは泣き続けた。

 もう会えなかった。
 二度と会えなかった。

 けれどいっしょにいるのだった。
 確かにいまも、いっしょにいるのだった。
 みなのそばに、獅郎はたしかにいるのだった。

 そう思うと、涙があとからあとからあふれてくる。